内臓流出

中身が飛び出ています。

カミュが異邦人の英語版に寄せた自序の日本語訳を作ってみた

 アルベール・カミュが異邦人の英語版に寄せた自序(Préface à l'édition américaine)の英語訳を用いて日本語訳を作りました(自分はフランス語がまったく読めないので、原文は当たれていません)。誤訳が沢山あると思いますので、もし発見したらコメント欄等でご指摘いただけると助かります。

 

作成した訳文

 昔、私は非常に逆説的であるとは承知の上で、異邦人をある一文に要約した。「我々の社会では、母親の葬式で泣かないものはみな死刑を宣告される恐れがある」私はただ、この本の主人公が規則に沿って行動をしなかったがために死刑を宣告された、と言いたかったのだ。この意味で、彼は自らが暮らす社会において異邦人である。静かで官能的な生活の周りを、社会の郊外を、彼はさまよっている。一部の読者が彼を社会からの落伍者とみなすよう誘惑されたのはこの理由からである。しかしもし彼の性格をより正確に描こうとするなら、もう少し正確に言えば作者の意図により一致させたいと望んでいるなら、なぜムルソーは規則に沿って行動をしようとしなかったのか、と自分で自分に問うてみる必要があるだろう。この答えは単純だ。彼は嘘を付くことを拒否したのだ。「嘘を付く」というのは本当のことを言わないということだ。さらに言えば、実際のところ、特にあること以上のことを言ったり、人のこころについてのことで、感じたこと以上のことを言ったりすることも指すのだ。生活を単純化するために、我々は毎日そうしている。しかしムルソーは見かけとは逆に、生活を単純化させようとはしない。彼は自分がどうであるかを言い、自らの気持ちを隠すことを拒否する。すると社会は即座に自らが脅かされたように感じる。例えば彼は昔ながらの方法で罪を悔いるよう求められる。彼は真実悔いているというよりは苛立ちを感じている、と返答する。そしてその言葉のニュアンスが彼に罪があるように思わせている。
 それが故に、私にとっては、ムルソーは落伍者ではないのだ。彼は貧しく着飾らない、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼の感情は失われた状態になどない。執拗であるが故に深い情熱、絶対と真実への情熱が彼を突き動かしている。生きることと感じることから生まれるこの真実は、まだ控えめなものではあるが、しかしこれなくしては自己も世界も征服することはできないだろう。
 だから、この「異邦人」を、英雄ぶったそぶりをまったく見せずに真実のために死んでいくこと承諾した人間と見せたのは、そう間違ったことではなかっただろう。またもや逆説的になるのだが、このように言うこともできる。私はこの人物のうちに、我々にふさわしい唯一のキリストを描こうと試みたのだ。この説明の後にはお分かりいただけるだろう。これには神を冒涜する意図はなく、ただ自分の創りだした人物に対して感ずる権利を有する芸術家の、少しばかりの皮肉な愛情から言ったのだということが。

 

元の英語訳

The Outsider(Joseph Laredo訳、Penguin Modern Classics出版)のAFTERWORDのところにあります。

The Outsider (Penguin Modern Classics)

The Outsider (Penguin Modern Classics)

A long time ago, I summed up The Outsider in a sentence I realise is extremely paradoxical: `In our society any man who doesn’t cry at his mother’s funeral is liable to be condemned to death.’ I simply meant that the hero of the book is condemned because he doesn’t play the game. In this sense, he is an outsider to the society in which he lives, wandering on the fringe, on the outskirts of life, solitary and sensual.And for that reason, some readers have been tempted to regard him as a reject. But to get a more accurate picture of his character, or rather one which conforms more closely to his author’s intentions, you must ask yourself in what way Meursault doesn’t play the game. The answer is simple: he refuses to lie. Lying is not saying what isn’t true. It is also, in fact, especially saying more than is true and, in case of the human heart, saying more than one feels. We all do it, every day, to make life simpler. But, contrary to appearances, Meursault doesn’t want to make life simpler. He says what he is, he refuses to hide his feelings and society immediately feels threatened. For example, he is asked to say that he regrets his crime, in time-honoured fashion. He replies that he feels more annoyance about it than true regret. And it is this nuance that condemns him.

So for me Meursault is not a reject, but a poor and naked man, in love with a sun which leaves no shadows. Far from lacking all sensibility, he is driven by a tenacious and therefore profound passion, the passion for an absolute and for truth. The truth is as yet a negative one, a truth born of living and feeling, but without which no triumph over the self or over the world will ever be possible.

So one wouldn’t be far wrong in seeing The Outsider as the story of a man who, without any heroic pretensions, agrees to die for the truth. I also once said, and again paradoxically, that I tried to make my character represent the only Christ that we deserve. It will be understood, after these explanations, that I said it without any intention of blasphemy but simply with the somewhat ironic affection that an artist has a right to feel towards the characters he has created.

 

 

参考文献

Joseph Laredo訳『The Outsider』Penguin Modern Classics,2000

窪田啓作訳『異邦人』新潮文庫,2007

柳沢文昭著『「アメリカ大学版序文」から見た「異邦人」』,1992 (pdf)

 

The Outsider (Penguin Modern Classics)

The Outsider (Penguin Modern Classics)

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

30日間ストラテラを飲んだ感想

 ストラテラの感想。これの続き。

 

スペック・現在の状態

・注意欠陥を中心としたADHD(ADD)。精神科医の問診による診断を受けている。

  自分は多動はないと思っていたが、ずっとそわそわしていたり、身体の一部を常に動かしていたりするのも多動に入るらしい(非移動性多動)。そわそわしていたり、足の指をもぞもぞさせたり、手の指をピアノでも弾くようにパタパタ動かしたりというのはほとんど一日中やってたので、この意味での多動はあったように思う。でもまぁその多動は生活に支障が出ていない程度のものなので、主な症状は注意欠陥だと考えてもいいと思う。

ストラテラ服用量は1~13日までは40mg、14~30日までは80mg

・カフェイン依存の気があり、一日100mg~300mg程度の量をカフェイン錠剤で摂っている。カフェインを摂ると副作用が強くなったので、一時期50~100mgくらいにしていた。最近はそうでもないので200mgくらいは摂ってる。

 ストラテラノルアドレナリンを増やす薬で、カフェインはノルアドレナリンドーパミンなどの分泌を促す効果があるとのこと。もしかしたらカフェインはストラテラの効果を強めているかもしれない。

 

今のところの感想

・やり始めたらスッと続けられるようになった

 ものすごく効果があったと感じたのはここ。面白くないことを、つまらんなぁと思いつつもやれるようになった。動摩擦係数がかなり減った感じ。好きなことでもなく時間的にめちゃくちゃ切羽詰まってるわけでもない事柄について自然に90分近く集中できたときはびびった。たいして好きでもないことなのに5分経ってもスマホいじり始めたり歌歌ったりおもむろに紙を取り出して絵を描き始めたりしない!すごい!

 この物事の遂行能力上昇のお陰で、「面倒だしどうせ切羽詰らないとやらないしギリギリまで放置するか~」という思考が「面倒だけどやり始めたらスッとできるんだししょーがねーやるかー」になったのでその意味では先延ばしにも効いている。ただこれは薬の効果というよりは考え方の変化によるものだと思う。

・時間感覚が存在するようになった

 時間の見積もりができるようになり、「あれは~分あればできるからバイト始まるまでの~時間のうちにあれとアレが終わらせられるなー」とか自然に考えられるようになった。今までは締め切りがあることは把握していたけれども、今何をするかしか考えていなかった。自分はエピソード記憶に関する記憶力がかなり悪いので、時間感覚がないのは自分の行動を覚えていられないことに起因すると思っていたのだけど、自分の中にタイムテーブルが存在するようになって、時間感覚は概念上のものではなく本当に感覚としてあるものなのだなぁと実感した。

・物忘れをしても思い出せる確率が高くなった

 今までは物忘れしてもそれを思い出すという退屈な作業に耐えられずまぁいいか、で済ませていたものが、思い出すという行為を続けられるようになって、その結果思い出せるようになったという感じ。物忘れする頻度は多分変わってない。

・そわそわ、手足のむずむずなどが収まった

 そわそわ感が多い時は歩きながらとかでしか本を読んだりできなかったのだけど(ある程度気を散らさないと目の前の物事に集中できないため)、それがなくなった。むしろ一つのことしか集中できなくなった感すらある。

・注意欠陥にはほとんど効いている気がしない。むしろミスは増えている気さえする

 多分これは時間が有効に使えるようになった分アウトプットできるものが増え、その結果ミスの数としては多くなっているという事だと思う。ミスする確率は変わってない。

・時間が遅く感じられるようになった

 これは10日の時点でも感じていたのだけど書くの忘れてた。

・頭痛とイライラ、謎の敵意はまだ若干ある

 カフェインを控える(50mg程度)と副作用が収まるが、最近はそこそこ(200mg程度)摂ってもそこまでひどくはならなくなった。

・頭の中のごちゃごちゃはなくなった。だがそれがつまらないと感じる

 この感覚は慣れない。本当に慣れない。この頭のスッキリさが集中力アップの要因なのかもしれないが、これがなくなるとこんなに無刺激になるものなのかと思う。

 

→以上の状態からの総合的な感想

 注意欠陥には効いていないものの、物事を継続して行う能力は相当上がった。今まで全方向に拡散していたエネルギーを一点集中できるようになった感じ。これはものすごく便利で、この状態なら薬飲んでいないときよりも確実に成果が出せるだろうなと思う。でも頭の中が静まり返ってしまってつまらないという感じは継続していて、主体的幸福度で言えば薬を飲まないほうが高かった。今の自分の幸福を犠牲にしてまで未来の自分に奉仕してやる義理などあるのだろうか、と時々思うことがあって、そのために毎回このまま薬を飲みつづけていいのか少し迷う。でも本当に物事の遂行能力は上がったと感じる。

 なんというか、子供から大人になった感じ。物事の処理能力としては大人のほうが確実に上なんだけど、子供の時のほうが毎日楽しく過ごせてたよねみたいな。この状態はとても便利だから今後も多分ストラテラは飲み続けると思うけども、少し気を抜いてもいい時間が得られたら薬は抜きたいと思う。まぁでも、2つのモードを好きなように変えられるってのはいいことだな。いいことだと思うよ。

10日間ストラテラを飲んだ感想

 ストラテラを飲み始めて10日経ったのでとりあえず感想。

 30日間飲み続けたときの感想はこちら

 

スペック・現在の状態

・注意欠陥を中心としたADHD(ADD)。精神科医の問診による診断を受けている。

 おとなしく座っていられないほどの多動はないが、落ち着かずそわそわしていることはわりと良くある。時々「落ち着けw」と言われる。

ストラテラ服用量は現在40mg

・カフェイン依存の気があり、一日100mg~300mg程度の量をカフェイン錠剤で摂っている。これに加えて緑茶などを飲むことがあるので、実際はこれより多いかもしれない。

 ストラテラノルアドレナリンを増やす薬で、カフェインはノルアドレナリンドーパミンなどの分泌を促す効果があるとのこと。もしかしたらカフェインはストラテラの効果を強めているかもしれない。

 

今のところの感想

・頭を締め付けられているような感じの頭痛がする

・飲んだ後若干目が覚めるような気がしないでもない

・不機嫌さ、イライラ感、対象のいない謎の敵意が表れる

 これについてはPMS的なあれか??と思ったが自分はほとんどそういうのが出ない方だったと思うので多分違う

・頭の中がいろいろごちゃごちゃしていたのがなくなった

・そわそわ感は少なくなったと思う

・ミスはむしろ増えているような気がする(単にミスに気がつくようになっただけなのかもしれない)

→以上の症状からの総合的な感想

 今のところ注意欠陥にはあまり効いておらず、頭痛、不機嫌さなどの不快な症状が目立っているので、QOLは低下している。頭の中が静まり返った感じもあんまり好きじゃない。楽しくないからだ。周囲の状況を全身で受けて楽しむ感じがなくなってしまった。

 正直やめたい気持ちのが大きい。量が多すぎるのかもしれないし、自分には合わなかったのかもしれない。もっとも、ストラテラが効果を発揮しだすのは6~8週間後らしいので、ここ踏ん張りどころなのだろうか。うーん。

男性器発言と女性器発言について

 一般に、男性器についてより女性器についての方がはるかに語りにくい。

 例えば「ペニス!」と日常的に発言する人はいても、「ヴァッギーナ!」と発言する人はほとんどいない。男性のマスターベーションの方法についてはおおっぴらに語られるが、女性のそれについて語られることは非常に少ない。なぜか。

 これは性器をアピールすることにメリットが存在するか否かの違いではないだろうか。

 

 人々の多くは子孫を残したい、または残すべきであるという信念を持っている。なぜこの信念を持っている人が多いのかはわからないが、単純にそのような信念を持つ人は子を残していき、そうでなかった人は子を残さなかったためであろう。ともかく、人々は子孫を増やしていくための行動を行おうとする。

 男性の場合、子を増やすために多くのセックスを行おうとする。男性は子を体内に宿す必要がなく、子ができた時のリスクが少ないからだ。今でこそ男性は子の発育に責任を持たねばならないために大きなリスクを負っているといえるが、昔はそのリスクは少なかった。動物であった時代から続くその習慣は、今も男性の遺伝子に刻まれている。

 女性の場合、子ができた時のリスクが大きい。子を体内に宿している間、もしくは産後の不安定な状況においては、行動は大きく制限される。そして出産には激しい痛みと死のリスクがある。行動が制限されている間、頼ることができるのは基本的に親か伴侶である。動物の時代や医学が十分に発達していなかった時代、親はそれほど長い寿命を持たなかったから、女性は援護が必要なときは伴侶に頼っていた。要は女性は伴侶を慎重に選ばなければならない。

 

 男性器の素晴らしさをアピールすること、これは自身の生殖能力の高さを誇示するものである。社会的に男性器の広報が認められていることは、生殖能力を競う場が設けられているということであり、メリットがある。そのため、男性器についての発言はおおっぴらに認められている。

 女性は伴侶を慎重に見極めなくてはならない。伴侶にするに足る人物を見つけ、それを獲得する行動を起こすまでは、無節操に女性性をアピールすることは控えなくてはならない。女性器はまさに性そのものであるから、女性器は普段は隠されている必要がある。よって女性器についての発言はひそやかに行わなくてはならない。

 

 つまり男性器発言と女性器発言の言いにくさの違いは、男性が男性であること、女性が女性であることに起因するものである。社会的な女性の抑圧などによるものではないから、後ろめたさを感じる必要はない。そして男性器の広報にはメリットがある。さあ叫ぼう。ペニス!!!

 

生きる意味って?と考えるのは別に哲学的な気分になってるからじゃない

 生きる意味ってなんだろう? こう考えるとき、その理由には大きく3つのパターンがある。

 1つ目は承認欲求から来るもの。「私には生きる意味があるの?」との問を発し、「君には生きる価値があるよ」と返答されることで自分の価値を承認してもらうために行う。

 2つ目は哲学的な問から来るもの。「より良く生きるためにはいかにすれば良いのか。そもそもよく生きるとは?生きる意味はなんなのか?」と追求するために行う。

 3つ目は、これが一番危険だが、素朴な疑問から来るものである。

 うつ病などの病気にかかると、喜びや興味がなくなっていく。思考力は落ち、考えは硬直して、何事も気力を振り絞らないとできなくなって、周りにとっても自分にとっても無価値な存在なのだと思い込むようになる。そこから、自分は本当にこの世にいる必要はあるのか?この生は必要ないんじゃないか?という方向に思考が流れていく。

 廊下に大きな箱が置いてあって、通路を邪魔している。「この箱は邪魔だ。ここに置く必要があるのか?」と思う。まさにそんな素朴さで、「生きる意味はあるの?」という問は発せられていく。

 

 1つ目と2つ目の問は、より良く生きるために発せられる問である。しかし3つ目の問は、生きない理由を探すために発せられる問である。ごく素朴にこの疑問が湧きでてしまったら、もう専門機関で治療を施すしかない。

 

 つらくて死にたくなっている人を見ると、悲しくなる。生きていればきっと楽しいことがある、とは言わない。けれども、自殺は実行するまでにかなりの葛藤があって自分も苦しいし、周りに大きな負の影響を与える。それよりは苦しくなくて、かつ周りにも迷惑をかけない方法で、そのつらさを軽減できることがある。多くの頭の良い人たちが、精神医学という形で、つらさを軽減する方法を編み出すことに生涯をかけている。だから、どうにかやり過ごしてほしいなと思う。治療があなたを救うまで。

 

コミュニケーションをするということは自分を消していくことである

 記憶には3つの種類があり、エピソード記憶、意味記憶、手続き的記憶というものがある。

 エピソード記憶とは、時間・場所・感情がセットになった記憶である。例えば「修学旅行に行った時、あの場所から見た景色に感動した」「子供の頃、あの公園の近くで自転車に乗っていたら派手に転んでわんわん泣いた」などが挙げられる。いわゆる思い出のことである。

 意味記憶とは、言葉と物事の意味とを結びつけている記憶である。例えば「水は英語でwaterである」「人間は哺乳類だ」などが挙げられる。いわゆる知識である。通常「記憶力」と言えば意味記憶についての記憶力を指す。

 手続き的記憶とは、物事の手順についての記憶である。例えば「ピアノの弾き方」「自転車の乗り方」などが挙げられる。いわゆる技術、技能、身体が覚えている知識のことである。

 この3つの記憶にはそれぞれ別の部分の脳が使われており、この3種類のうち1つだけが障害されているということもある。

 

 自分のエピソード記憶についての記憶力は大変お粗末で、集中して見聞きしたものでなければほとんどすべて記憶に残らない。幸いなことにエピソード記憶的なものでも文章にされたものはわりあい思い出すことができたし、意味記憶や手続き的記憶についての記憶力は人並みにあったため、大学を卒業できる程度の知識は蓄えておくことができた。しかしいわゆる思い出と呼ばれるもの、これはほとんどない。例えば、何年も通った道の行き方を他人に説明しろと言われても説明できない(一度説明のために集中して覚えなおすか、地図についての記憶があれば思い出せる。また、その場所に行けば、手続き的記憶が働くためか正しい道を通ることができる)。学校行事で旅行に行くなどしても、覚えているシーンは画像にして3・4枚くらいで、人から思い出話をされても、ほとんど思い出せない。過去の自分はそんなことをしていたのかと驚くことがよくある。過去から自分に受け渡されるのは、文章にされたもの、何度も反復された音、通いなれた道、そういったものだけである。

 

 コミュニケーションをするとき、現在の自分はただ過去の自分からごく僅かな情報を与えられただけのほとんど初対面の人間であることを、相手は知らない。相手は過去の自分が見聞きしていたことを当然のように受け継いでいるものと思っている。親密になる度に過去の自分についての会話が増えていく。過去の自分という他人、過去の相手という他人、その「見知らぬ人々」のことを知っている体で話さねばならない。相手に思い出を残すということは、その親密になった相手の中に「昔の自分という他人」の記憶を増やしていくことである。私にとってコミュニケーションをするということは、「他人」についての退屈な会話を増やしていくことであり、その人の中から「自分」をゆっくりと消していくことなのだ。

 

理想的な「幸福物質」の条件

 ここでの幸福の定義は、快が十分に多く、不快が十分に少ない状態である。一時的ではなく長期的に「幸福」になれるものの性質を考える。

 幸福になる方法は、前述のとおり快を増やす、不快を減らす、快と感じる領域を広くするの3つである。快を感じる領域を広くすることは自身の認識の変化によってしか行えないため、幸福になる物質というものを考える場合、快を増やす、または不快を減らす物質を考えることになる。

 これまで不快刺激をなくす物質に関しては多くの研究がなされてきた。快・不快は刺激によってもたらされるものであるから、(不快)刺激をなくすものには基本的に中毒性が生じないためであろう(ここで言う中毒とはその物質に夢中になることである)。

 では快を増やす方向に作用する物質について、長期的に幸福になる物質(幸福物質)であり続けられるものが存在するとしたら、その性質はどのようなものなのであろうか。

 

 幸福物質が幸福を増やす物質であり続けるためには、快が減弱しないこと、不快が増大しないことが必要である。より具体的に性質を述べると次のようなものになる。

1.得られる快に限度があること

 ある物質が増えるごとに際限なく快が得られるようになると、その物質を摂取する行為ばかり行うようになる。当人の健康維持や社会的に好ましいとされている行動を疎かにすれば、結局のところ不快が多くなる。また、刺激とは日常との差異であるから、常に快刺激を受け取り続けていればその快刺激を受け取っている状態が日常となり、快を受け取るためのハードルが高くなる(耐性が付く)。

2.耐性が十分に弱いこと

 耐性が付くということは同じ刺激でも同じ快が得られないということ、すなわち快が減弱するということであるし、以前と同様の快を得るためにその物質を増やすことは、その物質を手に入れるコストと副作用の可能性を増やすこと、すなわち不快が増えることである。

 依存性は上2つの条件をクリアしており、かつ常に容易にそれが入手できる状況があるなら存在してもよい。


 この意味での幸福物質は既に存在している。特に飲食物は理想的な幸福物質である。満腹以上に食せば快は得られなくなるため1.の条件をクリアしているし、味蕾が変化しない限り刺激は変化しないため2.の条件をクリアしている。

 部分的に幸福物質といえるのは金銭である。金銭によって得られる快刺激には多くの種類があるため比較的耐性は付きにくいと思われる。つまり2.の条件をクリアしている。また、得られる金銭には限度があるため、金銭を用いることによって得られる快刺激は1.に示した性質を持つ。金銭というシステムを通じることで、金銭によって得られる快刺激が幸福物質としての性質を帯びるようになると言い換えることもできる。ただその当人に見合わない多額の金銭を得た場合、金銭は1.の条件を満たさなくなるため幸福物質とは言えなくなる。

 短期的には快をもたらす物質であるが幸福物質としての性質を持てないものの代表的な例は覚せい剤である。覚せい剤は中枢神経に働きかけ直接快刺激をもたらすが、1.の条件も2.の条件も満たさない。

 

 多くの覚せい剤使用者や当人に見合わない多額の金銭を得た者の破滅を鑑みるに、理性によって快楽発生物質を調節すればよいという考えは無謀であると言えるだろう。快刺激タイプの幸福物質は、自然に1.の条件と2.の条件が満たされるようなものでなくてはならない。