内臓流出

中身が飛び出ています。

幸福の定義、及びより多く幸福を得るための思考指針

 幸福とは何かという問に人生哲学的な装飾語を加えず回答するならば、快が十分に多く、不快が十分に少ない状態である、と言えるだろう。何を快と感じるか、何を不快と感じるか、及び何をもって十分と言うのかというのはまさに感覚の問題であり、個性と呼ばれるものの根本であるから、ここでは触れない。ただ快と不快は何らかの刺激が元となっており、刺激が快と感じる領域にあるときにその刺激を快と感じ、そうでなければ不快と感じるようになっている、という仮説を立てることはできる。

 例えばジェットコースターによって快刺激であるスリルを感じる人に安全バーを外したジェットコースターに乗せたら、ほぼ確実に不快刺激である恐怖を感じることだろう。身体が落下するという刺激は(バーがない分強くしがみつかなければならないということはあるにしても)ほぼ同じものだが、安全バーが付いているときは刺激からリスクが除かれているためにその刺激は快と判断され、付いていないときはリスクが伴うためにその刺激は不快と判断される。

 幸福を快が十分に多く、不快が十分に少ない状態であると定義するならば、幸福度をあげる方法は次のようになる。

1.快を増やす

2.不快を減らす

3.快と感じる領域を広くする

 1.の快を増やすということについて。幸福になるためには必須であると言えるが、刺激というものが通常状態との差異である以上、連続での快刺激増加行為は幸福を弱めてしまう(要するに、わがままになり満足感が減る)。

 2.の不快を減らすことについて。これは日常を円滑に進める道具や考えを持つことである。

 3.の快を感じる領域を広くすることについて。これは僅かな刺激でも快を感じられるようにしたり、快を感じる圏内の刺激を増やすことである。

 

 自分にまつわる関係について『希望』を持つことは、通常快を増やす行為であると捉えられている。ここでいう『希望』とは、未来において快がもたらされるかもしれないという予感である。しかし関係というものは長期間続くものであるから、通常状態との差異から生まれるものである刺激は次第に減弱する。つまり『希望』は最終的には刺激を快と感じるハードルを上げる足かせでしかなくなる。以上より幸福を持続的に感じるためには、『希望』を排し、不快刺激を排除もしくは自らの意識の変化によって減らし、日常にある刺激を存分に堪能することが肝要であると考えられる。

男性の中性性と女性の女性性

 昔、男になりたいと思っていた時期がある。

 別に男性の方が社会的に優遇されているからとか女性は抑圧されているからというわけではない。女性というカテゴリに属していると女性であることが意識されやすいということが嫌なのである。

 (性別を特に気にしないタイプの)両性愛者と無性愛者は我々の社会では完全にマイノリティであり、ほとんどの人は性別によって性的魅力の感じ方が変わる。つまり性別の違いを意識している人が絶対的多数派だということである。

 実際の性的魅力は別にして、女性というカテゴリは意識されやすい。例えば人の職業を述べるときに、女流作家、女社長、女性研究者などという言い回しは使われるが、男性作家、男社長、男性研究者などと形容されることはまずない(あるとすれば性別を明記する必要に駆られた時のみである)。つまり、男性の男性性は強く意識されておらず、男性という性は中性的である。一般に男性より女性の方が性的な需要が高いことから(女性の方が需要が高いのは、男性がより多くの子孫を残すために多情になったなどということが関係しているのかもしれないが、実際の理由は私にはわからない)、この格差は女性というカテゴリの性的魅力の高さから女性という性が意識されやすくなったためだと考えている。折り紙で折られた鶴は鶴という認識をされるが、万札で折られた鶴は鶴である以上に万札であると認識されるのと同じように。

 女性であることを利用して書く場合、この意識されやすさはメリットとなる。だがそれと関係ないことを書く場合はデメリットとなる。場合によっては「女性の発言」という余計な観点から見られてしまうからだ。

 性的魅力の格差が小さくなったらこの状況は変わるかもしれない。格差を少なくする方向としては女性の性的魅力を下げる方向と男性の性的魅力を上げる方向のどちらかだが、女性性の意識のされやすさが男性の生理学的な動機に起因するならば、下げるのは難しいだろう。男性の性的魅力を上げる方向の動きとして、私はかすかに成人向けBLの一般化に期待している(自分は腐女子ではないので完全に他力本願であるが)。成人向けBLはまさに男性の性的魅力を賛美するものだからだ。BLは性的描写よりも二人の関係性が重要だというから、現在の女性ほどには男性というカテゴリの性的魅力は高まらないかもしれない。だが、現在の男性用ポルノと同じくらいの一般さで語られるようになれば、その社会の性的魅力の格差は縮まっていると言えるだろう。

 

 こんなことをグダグダと書かずに、発言者のカテゴリが何であるかなんて全く気にされないくらい中身の質を上げることが一番大事なのであろうなぁ。みつを

異邦人考察 - 現実のみを享受する男、ムルソー

 ここで言うムルソーというのは、アルベール・カミュ著の小説「異邦人」の主人公である。本文中に示したページ数は、窪田啓作訳の異邦人(新潮文庫)119刷におけるページ数である。これは解説部分を含む。

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

 ムルソーはいくつかの行動について、不可解な行動を取っていると思われている。例えば母の死に涙を流さなかったこと、殺人の動機について「太陽のせいだ」と述べたこと、司祭に突然大きな怒りをぶつけ、その後自分が幸福であったと確信することなどである。

 しかし、ムルソーのこの一連の行動は本当に不可解なものなのだろうか?

 結論から言うと、彼にはある一貫した行動原則があると仮定することで、彼の行動を自然な形で読み解くことができる。その行動原則とは「現実にある刺激のみを享受し、『希望』による刺激は拒否する」という原則である。

 

母の死

 ムルソーは母が死ぬ一年ほど前から、母と会うことはほとんどなくなっていた。すなわち母は現実の刺激の変化に関わっていないということである。

 人々が長らく会っていなかった人の死でも動揺を覚えるのは、『希望』がなくなったからである。ここでいう『希望』とは、未来において快がもたらされるかもしれないという予感である。未来の快の期待値に対する偏見と言い換えても良い。特に母は子の人生に大きく関わっており、将来の快を変動させる可能性が高い。その存在がなくなるということは快変動の要素が減ったということ、『希望』がなくなったということである。

 人々はその『快の予感』によってすら快を得ることができるために、積極的に『希望』を持つ。だがムルソーはそれを持つことを否定する。『希望』を持つということは、「感じる以上のことをいったりする」(P138)ことになるからだ。

 『希望』抜きに現実の刺激だけを見てみれば、ムルソーが母と会うことはここ最近なかったし、これからもないというだけだ。母が養老院にいるかあの世にいるかという違いは、どちらもムルソーの人生に関わりを持たないほど遠いという点で等価であり、「結局、何も変わったことはなかった」(P27)と言える。変化がなければ、そこに反応がないのは当然である。見ず知らずの人、例えば東京都に住む斎藤という人物、オハイオ州に住むキャサリンという人物、アビジャンに住むバボという人物が死んでもほとんどの人が動揺しないのと同じように、ムルソーは母の死に対して動揺しなかったのである。

 

「それは太陽のせいだ」

 ムルソーは殺人の理由について、「早口にすこし言葉をもつれさせながら」「自分の滑稽さを承知しつつ」「太陽のせいだ」(P107)と述べた。滑稽さは承知しているのだから、ムルソーも本気で太陽が自分に殺人を犯させたと言っているのではない。しかしあの空間は太陽が圧倒的であったため、「太陽のせいだ」と述べたのである。

 通常、殺人の動機は何かと聞かれたとき、単純に衝動的なものを除いて、復讐のため、痴情のもつれのため、金のためなどと答える。これらは他者との関係においてもたらされる『希望』を変更せんがための行動である。例えば浮気をした恋人を殺す場合は(生きていることによって生まれる相手の)『希望』を奪おうとしているし、金目当てに資産家を殺す場合は(金による)『希望』を得ようとしている。

 ムルソーは関係性に意味を持たせない。ムルソーを突き動かしているのは現実刺激それのみである。そしてムルソーがアラビア人を殺害した時、その場を圧倒的に支配していたものは太陽である。一人で浜へ行ったのは、殺害を意図してではなく「陽のひかりにやられて、頭ががんがんしていたし、木の階段をのぼり、また女たちのそばへ帰ってゆく、そんな努力がいかにも億劫になった」(P60)ためである。そしてアラビア人との対面の時太陽は「全力をつくして、太陽と、太陽があびせかせる不透明な酔い心地とに、うち克とうと試み」(P61)なければならないほど暴力的に強く、しかも「太陽の光に打ち震えている砂浜が、私のうしろに、せまっていた」(P62)。この太陽の「焼けつくような痛みに堪えかねて、私は一歩前に踏み出した」(P62)のち、ムルソーは殺人を犯した。

 このように、ムルソーがアラビア人と対峙した理由には尽く太陽が関わっている。ムルソーは通常殺人の理由には『希望』を変化させるものを入れるのだと理解したうえで、「自分の滑稽さを承知しつつ」「それは太陽のせいだ」(P107)と言ったのである。

(ムルソーがなぜ銃弾を打ったかについては、私もまだよく理解できていない。ムルソーは自分に嘘を付かない範囲で一貫して幸福を追求しているが、この場面では唯一自ら「不幸のとびらをたたい」(P63)ているからである。これについては、ルネ・ジラールの、「(アラビア人の殺害シーンは)ムルソーを無垢なる殺人者に仕立て上げるための構造上の欠陥である」という説を私は支持する。そしてもしこの場面が物語を進行させるためのイベントにすぎないとしたら、なぜムルソーが殺人を犯したかを考えることは、「グレゴール・ザムザはなぜ毒虫に変化したか?」という問と同じように意味のないものになるだろう)

 

司祭への怒り、幸福の確信

 司祭は関係性から生まれる『希望』を持つ人々の代表格である。司祭は神への信仰を迫り、神の裁きが一切だと語り、壁に苦しみの汗と神の顔を見ることを求める。司祭が「あなたにだってもうひとつの生活を望むことがあったに違いない」(P123)と喋り立てる場面からも、司祭が未来の快変動の期待値に対する偏見、すなわち『希望』を持っていることが伺える。

 しかし司祭の語る話はすべて神という『希望』から来る虚構であって、現実には存在しない(少なくとも、ムルソーは神が現実に影響を及ぼしているとは考えていない)。この『希望』の押し付け行為は、ムルソーが一貫して嫌悪感を示してきたものだ。「その信念のどれをとっても、女の髪の毛一本の重さにも値しない。君は死人のような生き方をしている」(P124)などど強い調子で司祭を非難したのは、『希望』への嫌悪を表明するためである。

 ムルソーが幸福を確信するに至ったのは、まだやって来ない年月を通じて立ち上ってくる「一つの暗い息吹」(P125)、すなわち死に直面した後に、司祭への激高を通じて自らの『希望』への嫌悪を再確認したからである(「あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空にしてしまった(P127))。この『希望』のない「世界の優しい無関心」(P127)を知ることによって、「星々のひかり」「田園のざわめき」「夜と大地の塩のにおい」(P126)などの「眠れる夜のすばらしい平和」(P126)がムルソーの精神に「潮のようにしみ入って」(P126)行った。囚人生活を送ることによる不快感もなくなり、現実に存在する様々な刺激に対して「自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じる」(P127)ようになったムルソーは明らかに幸福であるということができよう。

 

 カミュにおける不条理という言葉は、「人間はすべてのことに意味や理由を求めるが、世界はその問には答えない」という意味である。その意味で、ムルソーは不条理と心から向き合った人間である。今回の「夏空に引かれた親しい道」(P101)は獄舎へと通じてしまったが、ムルソーのこのような態度は、人が幸福に生きるために非常に重要なものであると私は確信している。

 

追記 (2013/04/28)

この記事を書いた二ヶ月後くらいに以下の本を読んだら、自分の言いたかったことなどが完璧に書いてありました。こちらの方が当然のことながら文章が超絶洗練されていますし、深い洞察を含んでいます。とても素晴らしい本なので皆さんこちらを読みましょう。

カミュ『異邦人』のムルソー―異教の英雄論

カミュ『異邦人』のムルソー―異教の英雄論