内臓流出

中身が飛び出ています。

コミュニケーションをするということは自分を消していくことである

 記憶には3つの種類があり、エピソード記憶、意味記憶、手続き的記憶というものがある。

 エピソード記憶とは、時間・場所・感情がセットになった記憶である。例えば「修学旅行に行った時、あの場所から見た景色に感動した」「子供の頃、あの公園の近くで自転車に乗っていたら派手に転んでわんわん泣いた」などが挙げられる。いわゆる思い出のことである。

 意味記憶とは、言葉と物事の意味とを結びつけている記憶である。例えば「水は英語でwaterである」「人間は哺乳類だ」などが挙げられる。いわゆる知識である。通常「記憶力」と言えば意味記憶についての記憶力を指す。

 手続き的記憶とは、物事の手順についての記憶である。例えば「ピアノの弾き方」「自転車の乗り方」などが挙げられる。いわゆる技術、技能、身体が覚えている知識のことである。

 この3つの記憶にはそれぞれ別の部分の脳が使われており、この3種類のうち1つだけが障害されているということもある。

 

 自分のエピソード記憶についての記憶力は大変お粗末で、集中して見聞きしたものでなければほとんどすべて記憶に残らない。幸いなことにエピソード記憶的なものでも文章にされたものはわりあい思い出すことができたし、意味記憶や手続き的記憶についての記憶力は人並みにあったため、大学を卒業できる程度の知識は蓄えておくことができた。しかしいわゆる思い出と呼ばれるもの、これはほとんどない。例えば、何年も通った道の行き方を他人に説明しろと言われても説明できない(一度説明のために集中して覚えなおすか、地図についての記憶があれば思い出せる。また、その場所に行けば、手続き的記憶が働くためか正しい道を通ることができる)。学校行事で旅行に行くなどしても、覚えているシーンは画像にして3・4枚くらいで、人から思い出話をされても、ほとんど思い出せない。過去の自分はそんなことをしていたのかと驚くことがよくある。過去から自分に受け渡されるのは、文章にされたもの、何度も反復された音、通いなれた道、そういったものだけである。

 

 コミュニケーションをするとき、現在の自分はただ過去の自分からごく僅かな情報を与えられただけのほとんど初対面の人間であることを、相手は知らない。相手は過去の自分が見聞きしていたことを当然のように受け継いでいるものと思っている。親密になる度に過去の自分についての会話が増えていく。過去の自分という他人、過去の相手という他人、その「見知らぬ人々」のことを知っている体で話さねばならない。相手に思い出を残すということは、その親密になった相手の中に「昔の自分という他人」の記憶を増やしていくことである。私にとってコミュニケーションをするということは、「他人」についての退屈な会話を増やしていくことであり、その人の中から「自分」をゆっくりと消していくことなのだ。